もし名声が一番の目標であれば、真に偉大になるために必要な動機をむしばむことになる。もしPGAツアーのレベルで競技したいのなら純粋な動機が必要となる。
偉大になるためには、目の前の課題に対して抑えられないほどの熱情が必要であり、それが純粋な動機という意味である。
もし熱情のためにプレーをするのならうれしい気持ちでプレーできる。他人が何と思おうと気にならない。子供たちが裏庭で野球をするように、プレーしたいからプレーするのである。それが純粋な動機の真髄である。
それとは対照的に有名になりたいと思ってスポーツをすると、実際は潜在能力を実現する力を脆くしてしまうことになる。
なぜそうなのか。
名声や崇拝されることを望むことは、欲を満たそうとすることだからである。他人から認められたいという基本的欲求は、人間であることの証しではある。
承認を求めるということは、意識的であれ、無意識的であれ、あまりに多くの「支配者」(訳注:ライバルやマスコミ等からの影響)のいいなりになってしまうということである。
激しい競技では既に重圧があるのに、まだそれよりプレッシャーをかけることは、抱えきれない負担と失敗につながる。他人が何と思うかを気にしていると、目の前にある直接経験から切り離されてしまう。
こうなると知心自覚を活性化することができなくなり、ゾーンに入れなくなる。
『「ゾーン」はここだ!』
マイケル・ラーデン
-タイチーめも-
自分のための太極拳
いつも同じことを言っていますが、重要なので、なんどでも言います。
誰のためですか?
あの人より自分は足が高く上がる、あの人よりも自分は腰が低い、自分の太極拳は周りとは違う…。
太極拳の世界で、よく見かけることです。
じゃあ、実際に戦いなさい。
となると、今度は「俺のほうが強い」とかいろいろ始まるので終わりません。┐(´д`)┌
誰のために、何のために、太極拳を修行しているのか?
自分のためです。
したくてしたくてたまらない、楽しくて楽しくてたまらない、自分のためにするのです。
功夫(時間をかけて培った能力と力のこと)は、自分の中にしか蓄積できないのです。
師から授かった、誰にも取り出せない、自分だけのぴかぴかの宝石です。
それは、あくまでも自分自身のために修行した人のみが得られるものです。
しかし、そうやって身につけた「力」は、自分の欲を満たすために使ってはいけません。
そうすれば、功夫という宝石はとたんに輝きを失います。
困っている人のために、その力を必要をしている人のために、自分の欲得を抜きでふるうことが肝要です。
他人のための太極拳を練習してはならない。
自分のために太極拳を使ってはならない。
修行は自分のために、得られた力は人のために。